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ゲーム性

vol.12掲載「ゲームを巡るバベル:ゲーム、拡散、その評論の難しさ」より抜粋:

ゲーム性」という語.

日本におけるゲームを巡る言説について、その混乱を示す特徴的な語がある。「ゲーム性」という語である。


ゲーム作品のゲームらしさ、というものを示すものとして「ゲーム性」という語は用いられることが多い。しかしながら、この語が用いられるときにその背景にあるはずの「ゲームらしさ」について確固たる定義が考慮されていることはまれである。

ゲーム性」という言葉が用いられるとき、話者が「ゲームらしさ」を意識していることは間違いない。なぜ意識するかといえば、ゲームについて語り考えるときに、その「ゲームらしさ」が重要だと思っているからだろう。
にも関わらず、そこに厳密な定義はない。なのに話者はまるで「ゲームらしさ」が自明であるかのように「ゲーム性」という言葉を用い、自明であるかのように語り考える。


「ゲームらしさ」あるいは「ゲーム性」なる言葉が暗に示すなにかが存在しないわけではない。
だがそれは、自明であるといえるほど確たるものでもない。たとえば「○○にはゲーム性が足りない」と言う言及は、いったい何の不足に対する言及なのか――ということを考えれば、その自明でなさは明らかになる。

その自明でなさを理解したうえで「ゲーム性」という言葉を選択するのならよいだろう。
確かにそのように呼べるなにかはあり、ただそこに厳密な定義はなされていない、ということを知った上で、その曖昧なものにそれでも言及したいとき、「ゲーム性」という言葉はひどく便利なものとして機能する。


だが同時に「ゲーム性」という語を用いることで、論のある部分が曖昧なものになることも覚悟すべきだろう。まさにその部分を突き詰めるための話であるとき(「テトリスのゲーム性はどこにあるか」などという論のとき)や、逆にその部分が全体としては重要でないとき(「ゲーム性どうこうはさておいて、」などの軽い言及)であればその曖昧さはさほど危険ではない。しかしその危険さを理解しないまま「ゲーム性」を重く用いれば、それは論自体を曖昧なものにしかねない。


そもそもそれほど重く「ゲーム性」という言葉を使うのであれば、ゲーム性という曖昧な言葉自体を排除すべきであろう。そこに代わる確たる定義がない、という状況は確かにあるが、真にゲームを論じようとするのであれば「ゲーム性」なる語が曖昧としたまま指し示しているその領域に目を向ける態度がどうしても必要なはずだ。
すくなくとも、「ゲーム性」という曖昧な言葉を一度は分解する必要がある。そこに確たる定義を立てることが理想であるが、とりあえず立てられた定義を借りてきたり、自分なりの仮の定義を求めてみてもよいだろう。


もちろん「ゲーム性」という語はひどく便利なのだ。その便利さは日本語の「∼性」という言葉がひどく便利なことによるものだろう。本質を曖昧にしたまま、その曖昧な本質を指すことができるというのがとても便利なのはまちがいない。
そしてその便利さが、ゲームほど急速に進歩したものを語る上では半ば必要なものとして機能してきた。それが現状なのだと思う。
だがだからこそ、改めて「ゲーム性」という語を見直すべきだろう。すくなくとも、無思慮なまま「ゲーム性」という言葉を使う限り、ゲームを巡る言説に進歩はないであろうから。


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