RGN#4
2006/12/10@GLOCOM「シナリオライターの眼から見たテレビゲームの特異性」
企画・モデレーター:茂内克彦 http://www.intara.net/
客層が普段と違う:初参加の人3/4ぐらい?
「コンピュータRPGにおけるプレイヤーとプレイヤーキャラの関係について」前田圭士.
- 報酬効果
- 参加意識(巻き込む)
- 選択性(分岐・並列)
- 集団作業
参加意識:主人公とプレイヤーの行動原理を一致させることが重要。
「ヒロインを救いに行く」シナリオなら、プレイヤーがヒロインに好意を持っておくようにすること
選択性:選択によって物語が変化していく。
ex. 映画:ラン・ローラ・ラン
集団作業:(特にゲーム製作において)シナリオは「発注書」「注文書」である。
他の作業者に意思を伝達するためのもの。構想が伝わらないといけない。
{戯曲とシナリオの違い?}
参加意識.
PC(プレイヤーキャラクター)とPL(プレイヤー)は別。
両者を一致させるためには:共感しやすいキャラクター
- 客層を意識したキャラ設定(中学生ぐらいを狙ってるならそのぐらいの年齢、など)
- 共感しやすい台詞回し。
- 突拍子もないことを言う/やるにしても行動原理は理解できる必要がある。
{→これらはマイナス方向のハードルを取り除く、という作業ではないか}
ゲームだと、「モニターの外」にいるはずのプレイヤーにも、影響が出る。
→プレイヤースキルが上がる
映画や小説、マンガなどでは起こらない現象
――「テレビの前のことを考えろ」by 桝田
シナリオとレベルデザイン・ルール学習の関係性
序盤のチュートリアル的シナリオ・シナリオレベルでルール学習の階梯を意識して組み込む。
→プレイヤースキルの上昇を(シナリオの段階から)コントロールしていく
「ゲームとは何か?――その発想と構成」川邊一外.
→ゲームの発想法
「頭の中をどう動かしたらユニークなゲームが作れるか」
ゲームとは.
「古代のサバイバル戦争を演戯するもの」
サバイバル戦争:生存のための闘争
演戯:架空現実の中での目的行動
各種のゲーム.
- 囲碁 → 領土争い
- 将棋・チェス → 戦争
- 球技
- カード
- パチンコ、コリント、ピンボール、等→得点による覇権争い
-
オリンピック・ゲーム → 戦闘行動
-
古代五種
- 短距離 幅跳び 円盤投げ 槍投げ レスリング
-
近代五種
- 馬術、フェンシング、水泳、射撃、ランニング
-
古代五種
{この段、射幸心とかの文明化で複雑化した部分を前置き抜きですっとばしているのでやや的外れ&難解}
定義の再確認.
「Survive!(生きよ!)」
「サバイバル戦争=生存のための戦い」を模擬(simulate)し、プレイヤーがこれを演戯(play)するもの。
環境:架空(virtual) ルールによる抽象世界
現実の死や流血や苦痛はない
プレーヤー:心理・感情は現実と同じ(actual)
勝利の喜びや敗北の悔しさはactualなものとして体感される
∴ゲームとは「人間が現実の死や流血や苦痛を避けて、生存のため戦いを体感するための装置」
人間の第一の善=生き延びること.
生産力の向上・国際協調の進歩
→戦争の根絶 しかし生存闘争(への欲求)は継続
→→しかし(人間の)ゲームへの欲求は残り続けている 「勝ちたい」という欲求
→→→ex. 代理戦争としての国際サッカーゲーム
ドラマ(物語)を持つゲーム.
物語環境を持ち、物語を楽しむという側面を持つもの
RPG
アクションRPG
アドベンチャーゲーム
ゲームとドラマの違い.
ドラマには社会倫理の主張「テーマ」があるが、ゲームにはない
巨人×阪神 どちらが「正義」でもない
ドラクエ:勇者vs大魔王 正義と悪の戦い
主人公の行動が暗黙に訴える倫理→テーマ
しかしゲームにはドラマにない根本テーマ「Survive!(生きよ!)」がある
{ドラマというものの認識にわかりやすすぎる図式を使っている点に問題がないか?}
ゲームドラマの可能性.
テレビゲームには「もし」のシミュレーションができる
→パラレルワールドの複合体としての世界を表現できる
PCの使い分け:複数の視点の総合
→インタラクティブ・ムービーへの展望
ゲームにしかできない類の表現が成立する可能性
「演劇的なるものとゲーム的なるモノ」佐々木智広.
演劇とゲームの違い.
「参加性」の違い。
演劇の方が希薄。
席に座って観るor寝る 寝ていても進行する
ゲームは寝ると進行しない。例外:寝マクロ
(演劇で)実験してみた.
- 客を舞台に上げて、役者を客席に置いてみた → 入れ替えたからって客は役者にならない
- ビンゴゲームをやってみた → 流れを切ったもので客がストーリーを忘れた
拍手以上の参加を望むのは普通ムリ。
ゲームと演劇の違い.
「分岐の有無」
多数決では切り捨てられた人の希望は無視される。
ディスカッション.
Final Fantasy Xについて.
川邊:みんな死人ってのはどうなのよ?
佐々木:演劇だとできないがCGだからできる演出・表現はある(人が人を透き通る、とか)
逆転裁判.
茂内:前田さんがFF10はやってらっしゃらないので、好きなゲームに上げた逆転裁判について
前田:ADVというのはコマンド選択式で収束して、総当りすれば解けてしまうものになっていた。
新・鬼が島:「動くな」という指示に対して「コマンドを選択しない」が正解という演出
演出や機能性での発展はあったが、システムとしては発展が止まっていた。
逆転裁判:「突きつける」がシステムに入ったことで、発展につながった。だが、裁判パートでしか使われていなかった。
逆転裁判2:「サイコロック」 証拠集めパートでも「突きつける」の快感を導入
{御神楽少女探偵団とかBLOOD the last vampireとかは?}
井上:FF7 :自分が誰なのかを知らない、記憶を取り戻していく主人公
FF10:異世界に投げ出されるところから始まる話
7だと記憶を取り戻すことでPLとのギャップが生まれる
茂内:記憶の回復はゲームの進行と共に進める(ファミコン探偵倶楽部1)
井上:記憶喪失などはゲーム(シナリオ)デザイン手法上で重要な位置にあるのでは
前田:記憶喪失はあまりよい手ではないと思う。
設定が複雑だったり登場人物が多いから、プレイヤーとPCの一致のために記憶喪失、なのかも。本来なら主人公が知っていなければならないことを説明する違和感を消すためなのでは。
佐々木:映画のシナリオを書くこととゲームのシナリオを書くことの違いは?
川邊:初心者ほど(安易に)回想を使いたがる。回想シーンそのものは劇性が薄い。「説明のためのもの」であることが多い。
DQ8の冒頭:ドロマゲスを追っているが、追っている背景については説明がされない。後に設定が明かされるが、それが冒頭でない理由がない。冒頭で見せれば、プレイヤーの動機がゲームの目的に一致しやすい。
FF10:
茂内:映画は2時間で終わるものだが、ゲームはそうではない。そのへんの違いはあるのでは?
川邊:だが、冒頭にはドラマとしての強度が必要だと思う。参加意識が足りなくなっては作品として成立しにくくなる。
前田:1と8、8は最初の街について満足してしまった。
最初にやることがわからない、わからないからそこで止まってしまう。
川邊:DQ8は、小さなレベルでの誘導はとても面白かった。
作劇法としては、最初にクライマックス、もしくはそれを象徴するシーンをぶつけるという手がある。
佐々木:演劇だと客を2時間飽きさせない、というのがある
川邊:映画もそう
質疑応答.
ゲームだと分岐でシナリオが変わることがある。反復や時間の遡行がゲームでは本質的に伴うことがある。あるシナリオではシーン1だった場面が、別のシナリオではシーン3として機能する、ようなケースがある。
企画を出すとき、シナリオが面白い、というのはどの段階でわからせればよいか。
前田:最低限プロットの段階ではわかるべき。
プロデューサーがアイデアの時点でわかる人だと楽になる(プロット書かなくて済むから)