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Nintendogs with meme

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2005年5月ごろに実行された「あるばれすと参加遠征中に本を作るプロジェクト」のために書かれた雑文。
うだうだとではあるが示唆的なことは書いた(つもり)なので、折角だから公開してみますよ。

Nintendogs with meme / 中田吉法.

 Nintendogsを買う。忙しかったので少々放置してあったが、ふと時間が空いた隙に始めてみる。
 始めてみてすぐに、さっさと始めればよかったと後悔する。

 わが仔犬(選んだのはヨークシャ・テリアだ)に名前を呼びかけ、ひたすら画面をタッチでなでてやり、「おすわり」だの「おて」だの「ふせ」だの仕込む。いきなり名前を呼びかけろと言われて急場しのぎで思いついた名前だが、呼びかけていちいちかわいい反応をしてもらえると愛着が湧いて来る。
 そのプレイ光景はと言えば、いい歳した大の男がにやにやしながらゲーム機に向かって呼びかけたり息をかけたりと怪しいことこの上ない。でも内心のしっぽを振りながらそうしてしまう自分がいる。あっさり陥落させてくれたその上質ぶりに感服。

 次の日の晩、同居人(残念ながら同年代の男だ)に誘われたので近所のラーメン屋へ。当然すれちがい通信機能をONにしたDSをぶら下げながら。徒歩の道行き、家を出て私が力説するはあたりまえだが「Nintendogsイイ!」である。
 すかさず「でもそれってゲームなの?」と訊かれる。
 ううむ。さすが私の同居人と言うべきか。実に的確な質問だ。もちろん胸を張って答える。
「すごくいいトイ(おもちゃ)だね」と。


 それは実にいい質問だし、ゲームを評論する前段として必要な分類学のことを考えるならゲームをやっている自分に対して常に問いかけ続けるべき観点でもある。
 だがまずもって目の前にあるゲームを楽しむためには――あるいはやらずして目の前に情報だけあるゲームの楽しさを推測するには――その疑問は忘れるべきでもある。いや、Nintendogsにもそれっぽいものは用意してあるのだが、そんなの(プレイヤーが)とりあえずどうでもいいと思ってしまう。自分が名付けた仔犬が寝たり跳ねたり走ったりしているのを見てにやにやする、それだけで遊びはもう成立するのだ。

 というわけでにやにやしてるのが楽しいのだ! なんてありきたりな結論を出しても仕方がない。それをしないために分類学というものがあるのである。
 改めて断言してしまうならNintendogsはゲームではない。目的性とか競争性とか、ゲームをゲームたらしめるであろう核心的な部分(間違ってもそれを「ゲーム性」などという曖昧な言葉で呼んではいけない)は、Nintendogsには致命的に欠けている。 
 だが再び分類学に照らした上で別の観点を加えるならば、やはりNintendogsはゲームの系譜の上にあるものだ。
 それは単に出力と入力を変えただけの育成ゲーム、だ。パラメーターがちっとも数字として表れず、ひたすら犬の反応によってのみ表現されるというだけのことで、やっぱり中身としては数値があって入力があって数値が動いてパラメーターが変化していくのだろう、ってところまで想像できてしまう。
 だがそれでも、数値を見せないこと、ひたすら犬の動きや反応のみで現況を見せるようにしたことによって、育成ゲームを育成ゲームたらしめていた数値への関心ってやつをプレイヤーから拭い去り、ひたすら仔犬を愛でることに集中させることに成功している。
 そんなわけでデザインに遺伝子みたいなものがあるとすれば、確かにNintendogsはゲームの子供なのだろう。だがそれはゲームをゲームたらしめていた要素:目的性を自ら放棄することで、別の性質を獲得した。
 デザインの持つ遺伝子のようなもの――それに当てるべきであろう適切な言葉として、模倣子(ミーム)というのを借りてこよう。そしてNintendogsへの言及を言い換えるのであれば、「それは育成ゲームのミームを受け継ぎながら逸脱によって非ゲームとなったトイ」なのだ。

 そういうものを「ゲーム」と呼んでいいのかどうか。
 という疑問には当然行き当たるし、ゲームの評論なんてことをやっていれば当然行き当たる問題だ。だがそんな疑問にも関わらず、Nintendogsなり、あるいは同じ疑問を提示する他の逸脱物にしたって、たいがいは問答無用で「楽しい」(というか楽しいからこそ、その疑問に行き当たるわけだけど)。


 ところでラーメン屋への道では、すれちがい通信が成立したりはしなかった。翌朝マクドナルドへ朝食を食べに行ったときもスカ。都内とはいえぎりぎり都内なあたりでは、人口密度がやはり低いカー、なんてしょんぼりしながら、ともかく出発の日がやってきた。
 そして、そんなことを軸になにやら原稿を書こうと思いながら乗った羽田空港への電車にて、遂に初すれちがい通信成功! 鞄に放り込んでいたので気づいたのは電車を降りてからだったが、なにやら知らない動きをする相手の犬が画面の中で私の犬と戯れていた。飼い主情報を見れば随分やりこんでおる様子。むむむ。犬種も同じだし、俺の犬もこんなふうに育つのだろうかなんて思う。
 羽田空港で同道の友人たちと合流。彼らもやはりNintendogsの飼主であるので、当然のようにすれちがい通信だだだ。これって基本的にポケモンでやってることと一緒だよな、と思いながら、そうかこれはむしろポケモンのミームを色濃く受け継いでいるのか、と思い至る。まあ、NintendoDS自体がポケモンのミームを色濃く反映したハードなのだから、当然と言えば当然か。 
(ゲーム内の)競技会の話とか聞いて、早速挑戦してみる。惨敗。その場でちょっぴりコツを聞いて、二回目は少しマシになる。ドッグスポーツは飼主の鍛錬も重要なのだなあ、と思う次第。これもミーム(=飼主の知識)とゲーム(ドッグスポーツ)の図式か。

 それを言うならそもそも自分がNintendogsを買ったのが友人が楽しそうに遊んでいるのを見たからであって。そこもまたミームがゲームか。「Nintendogsをやる」という行動のミームが、その発揮を通じて私に伝染してきた。その結果、Nintendogsをやる人間がまた増えた、ということだ。ゲーム業界におけるNintendogsの勢力拡大に加担した、というわけだ。
 そのようにあれこれを延々ミームで考えてみれば、およそほとんどのことがミームとゲームで解釈できることに気がつく。あるいは、ゲームとは基本的にミームが進化・発展する過程であると考えることもできよう。ゲームがあるからミームがあるのか、ミームがあるからゲームがあるのか、そこのところはわからないが、ミームとゲームは切っても切れない関係にあることだけはかなり確信を持てそうだ。

 まあそれはそうとして、そろそろ我が仔犬がお腹を空かせているころだろう。
 良い飼主となるためには、ここらで筆を置いて餌をあたえてやらねばなるまい。あるいは、私の対Nintendogsのミームを発展させなければ、良い飼主にはなれないってことだ。かくてまともな原稿を書くという私の行動のミームは打ち捨てられ、Nintendogsに夢中というミームがその地位を奪い去る、ということだ。


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