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人の限界とゲーム

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author: 中田吉法
GameDeep vol.9掲載 / 2006.04.13ページ作成

ゲーム理論.

 ゲーム理論は、複数のプレイヤーが存在し互いの行動が相互の利得に影響を及ぼしあうような状況下における各プレイヤーの最適行動を考えるための数学の体系である。
 ゲーム理論においては、プレイヤーとして完全な論理性を持ち、最終利得を最高にするために合理的な判断を下し続ける完全なプレイヤーというものが想定される。現実的にはこのようなプレイヤーはまず存在しないと言ってよい。
 しかし、このようなプレイヤーの存在を仮定することがゲームの解析のために有効であることはゲーム理論が存在し、様々に応用されていることが証明していると言っていいだろう。
 本論においては、この「ゲーム理論のプレイヤー」の存在を仮定した上で、それについて考察を行うことで、人とゲームの関係を少々変わった視点で照らしてみたい。

手順:ゲーム理論のプレイヤーについて.

 ゲーム理論の想定する完全なプレイヤーが、二人零和有限確定完全情報ゲームをプレイする場合、それは単に所定の手順を追うだけの作業となる。

 たとえば将棋を例に挙げよう。
 将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームである。ゆえに、完全なプレイヤー同士で将棋を行った場合の結果は「先手必勝」「後手必勝」「必ず引き分け」のいずれかに収束する。
 この三つのうちの「先手必勝」「後手必勝」の場合、すなわちいずれかが必勝の場合には、先手後手が決まった時点で勝つ側が決まることになる。したがって、振り駒(将棋における先手後手決定方法)によって手番が決定した瞬間にそのゲームの勝敗は決定する。
 残る一つ、「必ず引き分け」の場合、ゲームは「先手後手の決定に関わりなく引き分け」ることが決定している。すなわち、振り駒すら行われる以前に結果は確定している。

 どちらにしても、振り駒以降、実際に駒を動かす部分はもはや単なる作業である。双方が完全な手順を把握していて、結果は一意に確定しているのだから、その結果に向かって駒を進めるだけのいわば単純な「作業」が行われることになるだろう。
 あるいは、ここで完全なプレイヤーに「時間の無駄」という判断基準を取り入れたならば、完全なプレイヤーは将棋をプレイすることすらなくなるだろう。先手後手が決まった瞬間、あるいはゲームをやることを決意した瞬間に結果は確定するからだ。ならば双方の合意の元にゲームを速やかにその結果で終わらせることがもっとも望ましい(不利益を被らない)選択肢であり、「時間の無駄」を知る完全なプレイヤーは最善の選択として開始と同時に投了、もしくは合意の上での引き分けを選択することになる。

 これはチェス、囲碁などをはじめとするあらゆる二人零和有限完全情報ゲームについて適用できる話である。あるいは、より具体的な例として、「○×ゲーム(3x3の盤による三目並べ)」を挙げておこう。これは極めて単純なゲームであり、普通の人でも簡単に全ての手順を読み切ることができる。○×ゲームは必ず引き分けに収束するゲームであり、引き分けにする方法を知っている人間同士でプレイした場合でも、単に引き分けるまでの手順を遂行するだけのものにできるだろう。

 この話は、プレイヤーの能力を拡張することによって、身体を使うゲーム、たとえばサッカーやテニスなどにも拡張できる。
 おそらく拡張されたプレイヤーは以下の能力を有するだろう:完全な身体コントロール、完全な認識能力、完全な物理計算能力。
 このような能力のあるプレイヤーにとっては、スポーツとて二人零和有限完全情報ゲームとなる。たとえばサッカーであれば、風向きやフィールドの状態を完全に把握し、敵プレイヤーの位置を完全に把握しているだろう。そして、敵プレイヤーに可能な最適防御行動でも阻止できないようなシュートの軌道を計算し、それを完璧なコントロールで蹴ることができる------はずだ。さもなくば、そんなシュートが絶対に打てないことをゲーム開始時点で理解する。
 どんなスポーツでも、同じことが言える。テニスでも、ゴルフでも、あるいは格闘技でも、十分に拡張された完全なプレイヤーはそれを単なる手順にしてしまえるだろう。
 もちろん、量子の確率性の影響してしまうような(=確定的な計算が不可能な)ゲームがあるならば、その限りではない。しかし、その場合はもはや「二人零和有限完全情報ゲーム」という前提が崩れていると考えるべきだ。確定的な計算が不可能であるということは、そこにある種の乱数性が絡んでいる、ということなのであるから。

一方的手順:「オラクル(完全プレイヤー)」と「プレイヤー」.

 しかし現実には、(○×ゲームのように十分に単純なゲームに対するのでない限りは)それほどの能力を持ったプレイヤーは存在しないと言ってよかろう。そこで現実に存在しうる「普通の」プレイヤーとこれを区別したいと思う。
 本稿では、ゲーム理論の想定するような(=完全情報ゲームを単なる手順にできる能力を持つ)完全なプレイヤーを、「オラクル」と呼ぶことにし、対して「普通の」プレイヤーを単に「プレイヤー」と呼ぶことにする。

 さて、オラクルとプレイヤーが将棋等で対戦した場合、それはどのようなものになるか。
 結論から言えば、それはやはり手順に極めて近いものとなる。
 オラクル同士の対戦に比べ、プレイヤーは論理的に最善でない選択をする可能性を有しているし、実際最善でない選択をするだろう。しかしプレイヤーの選択が、オラクルなら当然選択する最善の選択を上回ることは決してないのである。

 プレイヤーが必敗側でゲームが始まった場合、それはプレイヤーの選択の不合理性という乱数的なものに影響されつつも、やはりプレイヤーの必敗という結果は終始変動することはない。
 プレイヤーが必勝側でゲームが始まった場合、しばらくはオラクル同士の対戦と同様にプレイヤーが必勝の手順が続くことになる。場合によっては最後までそれが続くこともあろうが、多くの場合にはプレイヤーが不合理な選択をしてしまうことにより、それ以降のゲームの分岐木が「必ず引き分け」あるいは「プレイヤー必敗」になる場面がやってくることになるだろう。「プレイヤー必敗」になれば、あとはもうプレイヤーの選択は出現する局面にしか影響せず、オラクルによってプレイヤー必敗の手順が遂行されることになる。
 必ず引き分けのゲームの場合も、プレイヤーが必勝のゲームと同様で、プレイヤーの不合理な選択が原因で、ゲームの分岐木のうち「プレイヤー必敗」となる分木に入り込むことになるだろう。そしてオラクルはプレイヤー必敗を遂行することになる。

 もちろんゲームの複雑さ次第では、プレイヤーが勝ち、あるいは引き分けに持ち込む可能性は十分に残されるだろう。しかしほとんどの場合はゲーム初期の乱数的な要素に過ぎず、どこかで必敗の分岐に入ることになり、それ以降は手順を遂行されてしまうこととなるのである。そして、そのような分岐に入って以降は、オラクルにとっては単なる手順となるだろう。

非手順:一方的手順におけるプレイヤーの視点.

 しかしながら、オラクルvsプレイヤーによって一方的手順が行われているときには、プレイヤーにはそれがまだゲームに見えるはずである。
 この見え方の違いはなにに起因するのか。
 それはオラクルとプレイヤーの相違点であろう。すなわち、手順の把握の有無であり、ゲームを手順としてしまうのに必要な能力がプレイヤーに欠如していること、である。
 プレイヤーはゲームの分岐の中で最善の選択肢を確実に選ぶ能力を持っていない。このため、完全に合理的な行動とは違う行動を取ってしまうことになる。また同時にプレイヤーは、オラクルにそれが見えていることも知らないだろう(仮に将棋が先手必勝のゲームだったとしても、開始と同時に投了を勧告されて納得できるだろうか?)。このような、プレイヤーの自分の行動、及びオラクルの行動についての不可視性こそが、プレイヤーの行うそれを「手順」ではなく「ゲーム」に留めるのである。

 ここで翻って再びオラクルに目を向けたとき、オラクルの行動がこれまでの単なる手順とは異なるものになっていることに気付くことができるだろう。
 プレイヤーが能力の欠如のために合理的でない選択を取るとき、オラクルはプレイヤーがよりプレイヤー必敗の分木に入りやすくなるような分木を選んでいくことがより望ましい選択肢となる。従って、オラクルは合理的にそのように行動することになるだろう。
 ここでオラクルがプレイヤーの非合理の程度をも把握可能であるならば、これはやはり手順のままとなる。しかし、オラクルが本来ゲームに必要なぶんしか能力を有していない場合、すなわちプレイヤーの非合理性を把握できない場合には、乱数=プレイヤーの不合理性がオラクルの行うゲームを変質させることになる。すなわち、確定完全情報ゲームをプレイしていたはずのオラクルは、対戦相手であるプレイヤーの不合理性を乱数要素とした不確定完全情報ゲームをプレイすることになるのである。

ソリテア・身体制約性:ゲーム理論外への拡張.

 ここまでの論からほぼ自明になっていると思うが、念のため、本来ゲーム理論の対象とならないソリテア(一人遊び)についても、オラクル概念をあてはめておこう。
 ここではソリテアを次の3つに分類しておく:確定ソリテア、有限時間制約付き確定ソリテア、不確定ソリテア。

 確定ソリテア------いわゆるパズルにおいては言うまでもないだろう。オラクルは無限大の計算量をこなすことが可能な存在であるから、あらゆるパズルはオラクルに対しパズルとしての効果を発揮しないだろう。というか、パズルというのはプレイヤーに対しなんらかの形での計算を要求するものである、というのがより本質を突いた言い方だろう。従って、無限の計算能力を持つオラクルに対しては、パズルが無意味であるのは必然だ。
 有限時間制約付き確定ソリテアにおいてはどうか。たとえばレースゲームのタイムアタックなどがこれに当たる。この場合、無限大の計算をこなすために必要な時間が無限小であり、なおかつ計算結果を遂行できるオラクルを想定すれば、やはり同じことになるのがわかる。
 不確定ソリテア------乱数要素を含むパズル、たとえばテトリスのようなもの------については、オラクルといえどやはりこれを手順にしてしまうことはできない。乱数はオラクルの万能性を越えたところのものだからである。

不可能性:限界とゲーム.

 現実的にはオラクルは存在し得ないことについては、論を待つ必要はあるまい。
 ごく簡単なゲームを除けば、人間はゲームを完全に解析・把握できるほどの能力を持っていない。そして、この、人間の限界であるところの不可視性があるために、そのゲームが手順にならない=ゲームのままに留まることはこれまで論じて来た通りである。
 人間(=プレイヤー)にとって十分に複雑なゲームは、オラクルにとっての不確定ゲームあるいは不完全情報ゲームのようなものとして見える。そしてその不確定性、あるいは不完全性がゲームを完全に把握しきれないものとするのである。
 あるいは、操作の困難性が伴うゲームにおいては、身体制約性がゲームの把握を阻止することになる。これもまた、ゲームを手順化させずゲームのままとして留める役割を果たすものだろう。
 言うなれば、人の限界こそが、ゲームをゲームたらしめるのである。


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