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古典的・背景的

履歴閲覧: {最新} 2009/01/14


書いた人:中田吉法
初出:永遠の現在

 本稿ではTactics/Keyのゲーム作品のスタイルについての話をしたい。
 けれどとっかかりがないとやりにくい話なので、まずはちょっと遠いところから話を始めよう。アドベンチャーゲームというか、ノベルゲームというか、とにかくそういうものについて大雑把な話、からだ。
 とりあえず、そんな感じのゲームを、「ノベル型ゲーム」と呼ぶことにする。した上で、タイムライン概念という視点でもって、整理してみたい。

○タイムライン.

 タイムライン。
 直訳すれば「時間線」。時間と共に進行するなにか、あるいは時間の進行そのもの。なにかをすると、時間が進行する。だが進行はたいてい単調ではない。とても速く進行したり、逆にとても緩かったり。
 時計が見せてくれるものとは異なる時間というものもある。
 時計の針がどんなに進んでも、操作しなければゲームの「時間」はどこかで止まる。本なら読み進める必要がある。そういう、表現に紐づいた内的な進行の度合というものがある。

 ノベル型ゲームでは、そんなタイムラインの進行についての主な権限をプレイヤーが権限を握っていることがほとんどだ。映像面の演出が強い場合――アニメーションや画面エフェクトを多用する場合――にはプレイヤーの主導性はぐっと減少するなどの傾向がみられる。
 これはちょっと特別なことだ。映画にしろ音楽にしろ演劇にしろ、タイムラインを持つ作品なら、たいてい見る側がタイムラインを握ることはない。小説等の文章でなら「読む」という主体的な行為が必要なので、ちょっぴりゲームに事情が近くなるけれど。
 でもゲームは小説ともやっぱり違う。小説なら読者に与えられた権限は絶対的だが、ゲームでは進行権限がプレイヤーの側にあるといっても、それはゲームシステムからプレイヤーに(権限が)預けられた結果でしかない。システムはほぼいつでも、任意にプレイヤーから権限を奪って、タイムライン進行を強制することが可能だ。アニメーション表示などでの強制進行が顕著な例だろう。この、権限が動的に変わる・変えられるというのは他のメディアと比してのゲームの特徴といえるだろう。映画などではそもそも進行の権限を観客に与えることが困難だ。

 コンピュータゲームにおいてタイムライン進行に関わる権限委譲(貸与?)が可能なのには、もちろんいくつかの理由がある。
 第一には、コンピュータゲームではコンピュータという制御機器が介在していること。映画のフィルムなら映写を開始してしまえば止めるぐらいしか途中でできることはない。
 第二には、その制御機器に対しプレイヤーが介入するための(決定的な)入力経路を持っているということ。たとえば音楽のライブ演奏や演劇であれば、上演中にアドリブを入れたりの変化は可能だ。でもそれを決定するのは出演者(プレイヤー)であって、観客(オーディエンス)じゃあない。
 そして第三には、プレイヤーが単独であるということ。仮に二人以上を同時に遊ばせるために、なんらかの手段でタイムライン進行をシステムが握って――複数のプレイヤーを「同期」させて遊ばせるゲームばかりになる。でもまあこれはあたりまえ、同期してなければ「いっしょに」遊んでいるとはいえないだろうから。

 と、まるでゲームが特別であるみたいに書いてきたが、ゲーム以外でも、観客には可能な選択が残っていることだけは明らかにしておこう。観客やプレイヤーはいつだってやめることができる。映画館の外に出る、読んでいた本をいきなり閉じる、CDの再生を途中で切る、等。更に永久に再開しないという決断も可能。もちろんゲームでも可能なことだけれど、どんなにインタラクション性が低くても、「はじめる」と「やめる」ことだけは可能なのだ。――外部の事情で強制されるようなことはあるかもしれないけれど。

○ノベル型ゲームの場合.

 ……さて、少し話が広がりすぎてるようだ。ゲーム全般の話すら飛び越えかかってる。ここらで少しは焦点を絞って、ノベル型ゲームの事情について考える、という本筋に戻ることにしよう。
 大半のノベル型ゲームでは、コンピュータが「版面」を制御し、プレイヤーは一人であり、決定的な入力経路を持っている。それはとても没入を促しやすい環境だ。没入とは集中であり、メディアアートというのはいかに客を集中させるかが勝負となる。
 そんなわけでノベル型ゲームは、プレイヤーの没入=集中を促す・強化する形で進化してきた。プレイヤーに主導権を委ね、自分のペースで進行させるのもその一環だろう。ノベル型ゲームのプレイヤーは、一人で、自分の意志による主導でもって、物語を進めることになる。
 映画でも演劇でも小説でも、どう頑張ったところで「彼岸の物語」であることを抜けられない。だがゲームは、ゲームであること、そこで制御をプレイヤーに委ねてしまうことによって、それ壁を突破し、プレイヤーに「此岸の物語」を感じさせることができるようになる。

 けれどノベル型ゲームは、ふいに手のひらを返したりもする。
 突然プレイヤーから制御の権限を奪い、主導的に物語を見せるとき。ムービーシーンとか強制進行とか呼ばれる場面、だ。
 しかし「裏切り」は物語の此岸化において、むしろプラスに働いたりする。強制進行には強制進行なりのメリットがある。
 短時間の(数秒程度の)強制進行は、その場で強いエフェクト等を見せることで、シーンを印象的に見せる一助となるだろう。
 それよりも長い、十数秒から分単位ぐらいの強制進行であれば、通常では出せない情報密度をぶつけるようなシーンが展開できる。
 あるいはもっと単純に、操作における惰性感をリセットして再集中を促す、なんてことも期待できる。強制感を物語のベクトルと一致させることで、演出の強化とするような使いかたも可能だ。

○「背景的」.

 話が狭まってきたところで、また意識的に話の対象を小さくしよう。この本の主旨に沿ったところへ――Tactics/Keyの作品について、話をフォーカスしてみる。

 そんなこんなで(他のメディアに比べて)単純に見えて複雑になりうるノベル型ゲームであるが、はたしてTactics/Keyの作品ではどうかというと、これがそんなに複雑なものにはなっていない。
 世の中には、もっと複雑な、コンピュータゲームの多態性を活かしたゲームがある。いわゆるギャルゲー界隈に絞ってみても、簡単に例をあげることができるだろう。
 これを技術の差が即、作品の出来の差になっているわけではないと、そう言ってしまうことは簡単だろう。
 だがそうではない。
 技術の程度だけが、工夫ではない。

 小説の話をしよう。
 タイムライン概念で小説を考えれば、小説とは(動的な)コントロールができない単一の文字ストリーム、ということになる。これを単純に受け取るなら、小説とはまったくタイムライン概念については無力な、ほとんどなにもできないメディアということになる。
 では実際のところはどうか。
 実際には多少の穴はあるけれど、ここではあえてそんなことはないと言い切ってしまおう。
 小説は、文字だけで構成されている。
 けれど文字は即文章になるのではない。文字の数は目安にこそなるが、読むスピードそのものを決定するわけではない。文字は単語を形成し、単語が連なって文になる。文が並んでようやく文章。
 同じ意味を持つ単語が複数ある。数々の修辞法は、単語が目に入る順番や速度をコントロールする手段になる。それらを駆使すれば、驚くほど小説というのは読者の(心理的な)速度をコントロールできるメディアとなる。
 読者の集中を期待できる、という部分も大きい。小説を読むとき、読者は文章という単一のレイヤだけを見ているはずだから、だ。

 あるいは、映画の話をしよう。
 映画は技術の進歩によって何度か革命的な変化を経ている。そのひとつはモノクロからカラーへの変化。別のひとつは、音の付加。
 音の付加のほうが劇的だった。
 それまで映画には動きしかなかった。だから、見てそれだけでわかる「動き」が求められた。サイレントなころの映画はともすれば演劇以上に演劇的だった。
 それが、音を得て劇的に変わった。別物になったと言ってもいい。
「何もしない」間、無音であることに意味を持たせられるようになった。それまでは全てが無音だったのに。

 Keyの作品は、ゲームエンジンやゲームスクリプト製作においてはあまり特別なことをしていない。プログラム技術としては、既存のゲームエンジンで可能な範囲を逸脱しない、ごく一般的なレベルに留まっていて、あまり大きな差異を作ろうとはしていない。
 それでは彼らは工夫をしていないのか?
 答えは、否、だ。
 プログラムなどのレベルから工夫をこらし、様々な演出を使ってくるゲームとは、重きをおいているポイントが違う、ということでしかない。それらが前景に重きをおいているとすれば、Tactics/Keyのスタイルは背景的と呼ぶべきように思う。

「背景的」なそのスタイルの根底には、彼らが音楽集団としての色濃い傾向を持っていることがある。
 残念ながらこの紙面では音楽を流せない、あるいはきちんと読み解くに足る音楽理論を持ちあわせていないという都合で、いくつかの傍証を語っておこう。
 ビジュアルアーツという会社は、パブリッシャーに近い存在だ。多くのブランドを抱えているが、各ブランドの独立性は強く、共通イメージにも乏しい。その一方で、ビジュアルアーツはインフラ的なチームを共有・各ブランドに提供することで、集約による効率化を図っている。プログラム(ゲームエンジン)製作チームであるフェアザンメルン、ボーカル曲を中心とした音楽製作チームのI'veなどが対外的にも名を知られている。
 そのような体制がある一方で、ビジュアルアーツ内でもエース格に相当するブランド・Keyは、音楽については特に独自の製作体制を採っている。ゲームエンジン部分が丸投げに近いのとは大きな差があると言っていい。主題歌等のボーカル曲では、作詞・作曲ともにKeyが直接に近い形で権限を握り、また歌手の選択においても主導的に動いている。
 あるいは初回版に付属してくるCDが、オリジナルではなくアレンジサウンドトラックであったり、その上で更にアレンジアルバムを出していたり。商材として価値があるからという背景はあるとしても、彼らが音楽に重きをおいていることの傍証とできるだろう。

 印象に強く残れる音楽を作り、使う。
 それだけでプレイヤーが感じるものは、大きく変わってくる。見ているものが同じ絵、同じ文章であっても、音楽ががらりと見えかたを変える。結果、プレイヤーに委ねられているはずのタイムラインですら、誘動されていくかもしれない。間接的なその操作は、しかし自発的であるために、ともすれば強制進行よりも強いインパクトをプレイヤーから引きだすことができる。そして、それだけの力がある音をこしらえてくる。
 加えて背景美術の特徴的・印象的な使いかたも、背景的であることに拍車をかける。もちろんノベル型ゲームの大半にはキービジュアルというものがあって、たいていは印象的になるように作られている。けれどTactics/Keyのゲームにおけるキービジュアルは、際立って印象的かつ執拗だ。
 そのうえTactics/Keyのゲーム(ゲームシナリオ)では、ゲーム的であることに極めて意識的な演出を仕掛けてくることが多い。『MOON.』における地下通路での演出、『AIR』におけるゲームを通じてのプレイヤー視点の巧みな誘動、あるいは『CLANNAD』のシナリオ全体構造などが例になるだろう。
 比較的インタラクション能力に乏しいゲームエンジン上で、けれどゲームであることを利用して、プレイヤーに干渉をかけてくる。
 けれどそれは、最後の一押しでしかないのかもしれない。
 極めて静的な、古典的といいたくなるほど新しさに乏しいシステムの上で、しかし背景的な干渉でプレイヤーを誘動し、そこにトドメとしてプレイヤーがプレイヤーであるという立場をついてくる。それは、ノベル型ゲームというスタイルの至ったひとつの極みなのかもしれない。


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