ゲームの正しい因数分解。
履歴閲覧: 最新 {2006/04/12[差分表示]} 2006/04/11
author : 中田 吉法(white@niu.ne.jp / http://white.niu.ne.jp/)
「ゲーム」という言葉を聞いて、あなたはなにを思い浮かべるだろうか?
多くの人は、ファイナルファンタジー(以下FF)やバイオハザード、あるいはビートマニアなどに代表されるビデオゲームとを思い付いたのではないか。
一部の人はD&D(R)をはじめとするテーブルトーク・ロールプレイングゲームを思い付くだろうし、もっと根元的な――将棋やチェスを思い浮かべる人もいることだろう。
では、同じ「ゲーム」という言葉から連想された、
FFとチェスは、果たして同じ「ゲーム」なのだろうか?
チェスは知的競技であり、FFはむしろ映画というべきものだ。こんな両者が、同じ「ゲーム」という言葉でくくられてよいものか。
両者を同じ「ゲーム」としてくくることは、あらゆる書き物を「文章」という言葉でくくって、「小説」「詩」「評論」「エッセイ」の違いを全く無視するような、そういう乱暴なやりかたなのではないか?
しかし、両者が違うものだったとして――どうにか区別するべきである。何の疑問もなく「ゲーム」としてくくられている世界を、見つめ直すべきである。
「ゲーム」は「ゲーム」のままでいい、そんな余計な区別は邪魔だ、とするむきもあるだろう。しかし、チェスを論じるのに「ストーリーの構造の良し悪し」を考えるのは馬鹿げているし、一本道のストーリーで「この選択は良手だったか」などと考えるのは不可能だ。
本論では、この「ゲームの分類」という、ゲームを論じるなら必要になる道具立てについて、考えてみたい――ちょっとばかり歪んだ見方であることは容赦していただくとして。
1: 5種類の「ゲーム」.
「ゲーム」という言葉を分割する上で、まずは「ゲーム」という言葉の指し示す両端を見極めてみよう。
一端が、ゲーム理論で言われるところの「ゲーム」であることは、おそらく疑いようがない。元々数学の理論として発生し、「囚人のジレンマ(*1)」などで知られ、今日では経済学や生物学にとってなくてはならない理論となっている、あれである。
とはいえ、ゲーム理論でいうゲームは、一般的な意味でのゲームとはほど遠い。それは、現実の状況を数学的に取り扱うために、対立的状況のエッセンスだけを取り出して単純化したものである。ゲーム理論のゲームでは、要素は極めて単純化される。存在する要素は、対戦相手・状況判断と選択・選択結果による優劣ぐらいのものだ。
反対の極は、完全に一本道のアドベンチャーゲームではないだろうか。
「ゲーム」と銘打っておきながら、その実体は(コンピューターで制御される)一本道のストーリーである。行動の入力はあるものの、それは本のページをめくるようなものだ。めくり方で何かが変わるようなことはない。
両端が見えたところで、中間域に目を向けてみよう。
チェスや将棋は「対戦相手がいて有利不利を競う」ものである。プレイ中頻繁に「ゲーム理論のゲーム」的な状況が登場する。
「ゲーム理論のゲーム」の頻出ということでは、対戦格闘ゲームなんかもかなりのものだ。リアルタイムであるぶん、チェスや将棋より頻度は高いかもしれない。対戦相手・使用キャラの相性などが、状況を生み出す要因になる。
すごろくはどうか。
有利不利はあるのだが、所詮サイコロの運次第なので、判断・選択は起こらない。「ゲーム理論のゲーム」と呼べる状況からは、ちょっと離れてくる。
テトリスではどうだろう。対戦相手はいないが、どこに落とすべきかという判断はある。ゲーム理論のゲームととれる場面はないが、それなりに似た状況は頻出する。
FFではどうだろう。戦闘シーンにはいくらかの有利不利があるが、大筋(ストーリー上)で有利不利が起こることはまずない。「テトリス」と「アドベンチャーゲーム」の合の子といったあたりだろうか。
さしあたり、「ゲーム」というものを次の5つに分割しておこう。
- 1 理論ゲーム
- ゲーム理論の定義に基づいた、「対戦相手、状況判断と選択、選択結果による優劣」の概念を持った状況(あるいはその連続)。代表例は囚人のジレンマ。
- 2 競技ゲーム
- ルールに基づいて、対戦相手との間で状況選択による優劣(=勝敗)を競う競技。代表例は将棋やチェス、格闘ゲームなど。
- 3 技術ゲーム
- 対戦相手はいないが、選択性や優劣の強い遊戯物。代表例はテトリス。
- 4 遊戯ゲーム
- 対戦相手、選択性、優劣のいずれか(あるいはうち2つ)を持った遊戯物。代表例はすごろく。
- 5 ゲーム表現
- 主にコンピューターによって統御される、インタラクティブ性を伴った娯楽的表現。代表例はFF。
これを道具として使い出す前に、一つ注意をしておくことがある。(分類というのは大抵そうだが)すべてが分類通りにきれいに区切れるわけではないということだ。
たとえば、テニスを例に取ってよう。テニスと言ってもファミコンの「テニス」などではない。ボールとラケットを使ってコートでやる、ほんとうのテニスだ。テニスを大まかに見るなら、「既定のセット数を奪い合う競技ゲーム」だろう。しかし、ゲーム中の個々の場面について言うなら、「飛んできた球を上手に打ち返す技術ゲーム」と考えることもできる。
こんなふうに、あるゲームの中に別の小さなゲームが内包されていることはよくある。他にも、詰め将棋と将棋の関係なんかがそうだ。詰め将棋は技術ゲームに分類できるが、詰め将棋に相当する状況は将棋(=競技ゲーム)でも出現する。それぞれのゲームは全く独立した概念ではなく、連続的なものだと言える。
連続的な中には、特に密接なものもある。理論ゲームと競技ゲームがそういう関係だ。もっとも、ゲーム理論というのは「ポーカーにおける駆け引きを数学的に表す」ために考え出されたものだという。競技ゲームと理論ゲームが蜜月関係なのは当然かもしれない。
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@「ゲーム」の精髄
さて、ゲームという言葉の原義を考えるなら――それはおそらく、競技ゲームと技術ゲームと遊技ゲームのうちのどこかに、落ち着くのではないかと思う。理論ゲームは限定され過ぎの感があるし、ゲーム表現の指す範囲はあまりに広い。
では試しに、英和辞典を引いてみよう。私が使ったのは、原稿を書いている環境にある、「電子ブック版辞書検索システム・研究社 新英和中辞典(第5版)」である。全文載せると流石に紙面を食いすぎるので、めぼしいところを抜き出してみよう。
- 遊技、遊び
- 競技、スポーツ
- 試合ぶり、ゲーム運び
- 勝負の形勢、(試合の中間)得点
- (学科目としての)運動競技、スポーツ.
- 冗談、戯れ、からかい
- 駆け引き、策略、計略、たくらみ
- (競争を伴う)仕事、職業
-
猟鳥[獣]類、(猟の)獲物
猟鳥[獣]の肉
(攻撃・嘲笑などの)かっこうな的、「いいかも」
- 勇ましい、闘志のある
- (…を)いとわないで(for)
とりあえずわかるのは、日本語の「ゲーム」と同じく、"game" にも多種多様な意味があること。けれど、ある程度の方向性は見える。
いくつかの慣用句からも、その方向は裏付けられるだろう。
"make game of a person" ――「人をばかにする」
"play the game" ――「正々堂々と試合をする」あるいは「公明正大に行動する」
gameという言葉は「楽しむ」「競う」の両面を持っている。そして、どちらかというと「競う」側面の方が強い。いずれにせよ言えることは、受動的な楽しみではないということだ。自分から事を起こしてなにかを楽しむ、あるいは勝つ。そういう、自発性をもった何かをgameという言葉は指向している。
とりあえず、そういうもやもやしたものを、 "game" と呼んでみることにしてみよう。
では、ここいらでまた質問である。
先に挙げた、5種類のゲームは、 "game" なのか?
と、質問しておいてなんだが、理論ゲームが "game" であるかどうか考えるのは、まさしく木を見て森を見ずな――無意味な行為だ。理論ゲーム(=ゲーム理論におけるゲーム)は、モデル化されたもの、現実の状況を数学で扱うために抜き出したエッセンス、純然たる分析のための道具に過ぎない。抜き出したものであるから必ず外枠があるし、それなら外枠について論じるのが正しい態度だ。
競技ゲーム、技術ゲーム遊戯ゲームの3つについては、悩むことも少ない。いずれも自発的な楽しみを持つものだ。先ほど考えた "game" というものには、ほぼ当てはまると言えるだろう。
問題になるのは、ゲーム表現である。とりあえず、ゲーム表現についての定義を復習してみよう。すなわち、「主にコンピューターによって統御される、インタラクティブ性を伴った娯楽的表現」だ。
これには( "game" であるところの)競技・技術・遊戯の各ゲームと決定的に違う点がある。すなわち、その3つが「競技」ないし「遊戯物」――するものであるのに対し、
ゲーム表現は「娯楽的表現」――されるものである点だ。ゲーム表現の中心的な楽しみは、演出される楽しみにある。これは、受動性の楽しみだ。「自発的」であるはずの "game" には該当しない。だから、ここでは結論づけたい。すなわち、ゲーム表現は "game" でないと。
しかし、ゲーム表現が "game" を含む可能性は、もちろんある。
FFは、おおむね映画だろう。展開されるのは一本道のストーリーだ。しかし、ところどころ "game" らしきものが見え隠れする。たとえば戦闘であったり、「ミニゲーム」であったり。
丁度テニスが競技ゲームの内側に技術ゲームを含んでいたように、ゲーム表現はときおり "game" を含む。そして、ときに "game" を含むがゆえに、ゲーム表現は「ゲーム」と称されている。
これは、発展の系譜からすればまったく逆の話だ。コンピューター上で作られた "game" が次第に表現に近づいていった(*2)というのが正しいだろう。
初期のコンピューターゲームには、競技ゲームか遊技ゲームに分類されるものばかりで、意図され組み込まれたストーリーはなかった。しかし、そこにストーリーを導入するものが現われた。
コンピューターの側の進化も拍車をかけた。最初期のコンピューターゲームは文字で全てを表していたが、今やゲーム表現は、音楽・効果音・音声・文章・画像・映像など、多数の媒体から成る表現だ。
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@3:一体なにが "game" なのか
さて。
なにが "game" であり、なにが "game" でないのか。だいたい見えてきたところで、"game" の正体を確かめてみたい。実は、これについては、非常によくできたテキストが存在している。英国のRPG誌、"Interactive Fantasy" に掲載された、「コスティキャンのゲーム論(*3)」というテキストである。今回はここから、話のとっかかりとして結論だけを借りてきてみよう。
コスティキャンのゲーム論で述べられているところの「ゲーム」とは、以下の3つの要素を含むものであるという。
* 目標
* 資源
* 意志決定
ここで言う意思決定は本文で言うところの「選択」、資源(管理)とは「状況」、目標とは「優劣」にほぼ等しい。
実際にいくつかのゲームについて、この条件を満たすかどうかを考えていくとしよう。なお、ゲーム名の後の()内は、本文での定義に基づく分類だ。
ちと、ここの「目標」の部分は苦しいか。ひょっとすると「テトリス」はゲームでないのかもしれない。
これは本格的な反例のようだ。単純なすごろくには、どうにも意思決定が入り込む余地がない。だが、すごろくには確かにいくばくかの競技性があり、なんとなくゲームっぽく感じることも事実だ。
だとすれば、われわれはコスティキャンのゲーム論よりもう少し広い範囲を "game" だと認識しているということだ。
では、すごろくを "game" だと感じる要因はどこにあるのか。
探るために、チェスと比較してみよう。
チェスは競技ゲームである。ルールにしたがって、どう駒を動かすかの意思決定をする。意思決定を導き出すのは、定石の知識と先読みという技術だ。結果として、チェスにおいては「定石の知識+先読みの力」が競われることになる。
対して、すごろくは競技でない。まっとうなすごろくには、(チェスで競われるような)なんらかの技術は影響しない。意思決定の要素もない。しかし、すごろくは公平な競争である。参加者は一律に「サイコロの出目」という公平な(はずの)基準を与えられ、同条件で競争をする。
そういう見方でなら、チェスは不公平な競争と言える。チェスで勝つためには、定石の知識と先読みの力が――ゲーム盤の外から持ち込みが必要だからだ。極端な話、チェス盤を挟んで座った時点で、八割方、勝負が決していると言える(*4)。
チェスとすごろくの話を、もう少し一般化してみよう。
まず、遊戯ゲームは競うものであればよく、競技である必要はないと言うことが言える。
言えることはもうひとつある。ゲームは競争であればよく、競技である必要はないということだ。
競技ゲームでは、文字通り「技」を競っている。ゲームをすることにより、直接(点数化)なり間接(相手との勝敗)なりで、プレイヤー個人の知識・資質・鍛練を計ることになる。
対して、遊戯ゲームでは個人の技量を計ることはない。遊戯ゲームは競う過程を楽しむことに、その主眼がある。乱暴に言えば、結果が大事なのが競技ゲーム、過程が大事なのが遊戯ゲームとなるかもしれない。
では、技術ゲームはどちらに属するのだろう。
技術ゲームには相手がいないから、重要なのは過程であるように思える。しかし、そうではない。
そうではないことを実感するために、たとえばテトリスをやってみて欲しい。ちょっと難しめの設定がいい。ゲームオーバーになった。それじゃ、もう一度だ。前より長く続いて、点数も多めに取れた。非常に喜ばしいことだ。
――さて。このとき、あなたは過去の自分と競ったのだと言えないだろうか。同じ「テトリス」というゲームの結果を出すことで、新旧の自分の比較を行なっていると言えないだろうか。あるいは、友達とどちらが高得点を取れるか競うこともあるだろう。
技術ゲームというは、本来計ることのできない「技術」を「ルール」に基づいて推し量る作業と言える。そして、「ルール」を細かく規定し明確に評点化すれば、直接的に競えないものを、競技化することも、できる。
たとえばテトリスなら「定石の知識」やら「展開予測の技術」が点数に比例することになるだろう。
さて、ゲームは競争であればよく、競技である必要はないのなら、コスティキャンの定義では少々都合が悪い。競争であるところの遊戯ゲームには、意思決定の要素がないからだ。
目的と資源は問題ないだろう。もう一つ、意思決定に変わる柱が必要だ。競技と競争、両方に存在する要素として「確定的でない状況変化要素」がある。対戦相手がいれば、相手の考えは100%はわからない。個人競技のスポーツだと、自分の体が思い通りにならない部分がそうだ。すごろくでは、いわずと知れたサイコロになる。そういう、自分の思い通りにならない部分、自分ではどうしようもない部分が、ただの「目標」を「ゲーム」に変えるのではないか。
ここでは、もっと噛み砕いて、「障害」としておこう。
結論は、こうだ。
"game" とは、次の3つの要素を持ったものとする。
* 目標
* 資源(状態)
* 障害(不確定性)
@4: 「小説を読む」というゲーム
最後の節は、ちょっとした思考実験から話を始めよう。
評点化によって競技でないものが競技になる、ということを話した。実験内容は、それをもう少し広げてみることだ。題材にするのは、小説を読むこと。
重要なのは、題材がFFじゃないってことだ。FFならまだゲーム表現であるし、技術/遊技ゲームを内包していたりする。ところが小説は、ちっともゲームじゃない。ゲームブックなどと言われる、順不同に指定されたパラグラフを読んでいく本もあるが、あれは小説じゃない。小説というのは、順番通りに文章を読んでいくものだ。小説は、ゲームじゃない。ゲームじゃないものを、ゲームにしようという。強引な話だと、思う。
けれどこれは、簡単な話だ。
目標を一つ、定めてしまえばいい。それだけでゲームになる。
資源は既にある――今まで読んできた内容だ。障害となる、不確定性もある――これから先の(未知の)文章だ。ゲームに必要なのは目標・資源・障害だから、足りないのは目標だけだ。なんだっていい。大長編小説なら、その長さを読みきることはゲームになるだろう。先の展開を常に予想しながら読む、というのもいい。
では。もしも映画や小説自身が、鑑賞者に目的を抱かせるような構成になっていれば? そこから出てくるのは、受動的な楽しみではなく、自発的な楽しみではないのか? その小説なり映画なりは、ゲームなのではないのか?
確かにそれはゲームかもしれない。自発的な楽しみが、そこにはある。
しかし、残念ながら真性の "game" とは、決定的に違う点がある。
そのような小説や映画は、確かにドラマを演出するだろう。だが、新たなドラマを産む事はない。しかし、真性の "game" は――それがすごろくであれ野球であれ――新たなドラマを産み出しうる。
じゃんけんみたいな、ごくごく簡単なゲームでだって、ドラマは産まれる。なにげなく始めたつもりが99連勝してしまったら――次の一戦は、ちょっとしたドラマになる。それは、ただの偶然の積み重ねでしかない。だが、映画を何本見ようが新たなドラマは産まれない。そこには、決められた通りのドラマしか発生しない。
けれど、ゲームは思い通りにならない。思い通りにならないから、思い通りのドラマを見せることはできない。思い通りの、洗練されたドラマを見せたいならば、小説や映画こそが適している。小説や映画は、ストーリーを語ることで、ドラマを見せることができる。
しかし、ストーリーを「見せ」かつドラマを「産む」ことの出来るものが存在する。
ゲーム表現だ。ゲーム表現は、ストーリーとドラマの中間に存在し、両者のもつ利点を併せ持っている。
コンピュータの上に産まれたゲーム表現という存在は、どちらにもなれる。ドラマを見せることもできるし、産むこともできる。そして、体感させながら見せることすらも、できる。
無論、この新しい表現形式にこだわる必要はない。映画が産まれてなお、絵も音楽もそれぞれの特性を持った表現として確立している。同じように、ゲームもまた徹底的にゲームであることもできるし、純粋表現に近づいていくこともできるだろう。そして第3の道、どちらでもあるという道を極めていくことも、もちろんできる。
大事なのは、それがどこを目指した表現であるのかには、常に気を配る必要があるということだ。
映画であろうとしているものを「ゲームらしくない」とけなすことも、ゲームに徹しようとしているものを「ストーリーが未熟だ」とあしらうことも、正しいことではない。ゲーム理論で映画の構造が把握できるわけがないように、それぞれに相応しい作り方・見方がある。
コンピューター上の表現として、ゲームを基にしたものたちは、大きな領域に広がりつつある。そのすべてを認め、それぞれに相応しい評価を下していくことが、これから必要であり、またそのように文化が育っていくことを、願いたいものである。