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Scratch Think

 いわゆる著作権に属する一権利として、同一性保持権という概念がある。
 作者に与えられたこの権利は、「己の作品が改変されないこと」を守るための権利である。ところで権利というのは、当然ながら他者の行動を阻害する。たとえば引用やパロディという行為は、同一性保持権と真っ向からぶつかることになる。このときどのような線引きをするべきか、はそれほど定かになっていない。――というか、例によって複製能力拡大の影響がここにも及んでいるのだろう。

 極めつけは、スクラッチやサンプリングという行為の存在だろう。
 著作権の観点からスクラッチやサンプリングを眺めれば、それは同一性保持権のバラバラ死体みたいなものだ。元となる作品の要素を抜き出し、加工し、全然違う意図の下につなぎ合わせて、別の作品を仕立ててしまう。
 言ってしまえば、作品性のフランケンシュタインだ。だがしかし、かの人造人間が偉大な発明であるように、このバラバラ死体も新たな作品性を獲得しうることは御存じの通りである。
 たとえば、マルセル・デュシャンの泉のように、様式やら常識やらそのような既存のものをブチ壊すことは芸術なのだから、まあ当り前と言えば当り前の話だ。
 だから元のコンテクストをずたずたに破壊するスクラッチはまた芸術たりうるのだ。すなわち、同一性保持権をずたずたに引き裂くことによって。


 そしてもちろん、著作権制度はスクラッチの様な行為を許容しない。もちろん現行著作権法に関する各種刑罰は親告罪なので、原作者が文句を言わなければそれでOKなのであるが。しかし法はそれを禁じている。

 と考えると、スクラッチという行為は著作権に対するアンチテーゼの堤出の方法としては結構エレガントだ。なんと言っても、スクラッチは新たな作品性を産んでしまうのだ。たとえフランケンシュタインみたいな作品性・芸術性であったとしても、それは創作とよぶべきものになるだろう。
 だが、スクラッチのような行為を現行著作権制度は意識していない。現行著作権制度の基礎は複製権にあるし、そこで想定されている複製能力では記録の一部分を都合良く抜きだして編集なんて行為が成立するはずはなかった。
 しかし現実に複製能力は著しく向上し、スクラッチという行為も可能となった。
 本来再生のためだけの機械であるレコード(+プレーヤー)を楽器として使ってしまう――スクラッチという行為は実に破壊的で、ゆえに芸術的で創造的な行為だ。ただし、スクラッチは音の列を破壊し、原音の意図を破壊し、同一性をずたずたに破壊する。物理的(音の順列)破壊と法的(同一性)破壊が同時に発生する、なんて物言いをするとなんだか妙に芸術的な気がしてくるがそれは多分まやかしだ。スクラッチするときにそんなゲージュツテキな感慨にふけったりはしないだろう。極めて大雑把に言ってしまえば、スクラッチしたいからスクラッチするのだ。


 結局人間の行動を最後に決めるのは物理的世界だろう。目の前にレコードプレーヤーがあり、手で動かせば正常でない音を出せるなら、人はそうするのだ。

 かつては、本であれば読む以外の利用法がなかった。媒体は厳密にその使われ方を規定できた。あるいは、およそどうでもいい使い方(本を枕にするとか、焚き付けにするとか)でしかなかっただろう。しかしデジタルデータでは、媒体を離れたコンテンツそのものについて、発信者の想定しない利用が容易に行なえる。

 そういった行為のひとつひとつを本当にコントロールするのか? コントロールしていいのか? いったい誰にそこまでの権利があるのか。
 たとえば、現に行なわれているスクラッチについて、そこに同一性保持を主張することはできよう。しかし、その結果として誰かの創造性を潰すことは許されてよいのだろうか。創造というものには模倣の繰り返しから産まれる変異であるという側面があって、だとすれば模倣を潰すことはまた創造を潰すことにもなる(ここにはGPL的な――自由についての構図がある)。
 あるいは、買ってきた本を結局読んでいないから枕にする――という行為を差し止める権利が著作権者にあるというのか。著作権者はあらゆる利用を規定できるとでもいうのか。どちらの権利がどれだけ守られるべきなのか。――今はそういう瀬戸際にある。これから数百年、創作という行為がどう進んで行くかの大事な船出となるだろう。

 だから改めて、小さなことからでも、考えてみるのだ。


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